tsuji-cam's HISTORY

専門学校時代@

昭和61年4月、大学受験に失敗した僕は、
東京の専門学校に入学する為、上京した。
僕が東京に来た日は、
アイドル歌手の岡田有希子さんが、自殺をしたあの日だった。
入学式は確か19日ぐらいで、少し日にちがあったので、
時間をつぶす意味も含め、
当時流行っていた
ファミリー・コンピューター(初代のファミコン!)を、
その日新宿で買った。
少し、流行りもおさまった頃だった。
買ったソフトは、
「スパルタンX」と「グーニーズ」
僕は、別に東京に憧れて上京したわけではなかったので、
特に
東京見物などしなかった。
今でも、東京という所に特に興味はない。
住んでいる近くしかわからない。
僕が東京で
初めて住んだ場所は、湯島

母方の親戚のおじさんとおばさんが本郷に住んでいて、
湯島の家は、おじさんに見つけてもらった。
おじさんの家には、
夕食と洗濯をお世話になっていた。
もう何年か前に亡くなられてしまったが、
このおじさんは、当時、
中央大学お茶の先生だったという方で、
よく学生がおじさんの家に来ていた。
おばさんの方も、
藤間流踊りの先生で、
とにかく、いいとこの家だった。
とにかく、
この本郷のおじさんとおばさんには、とてもお世話になった。

さて、湯島に住み始めた僕は、
湯島から10分くらい歩いて御茶ノ水まで行き、
中央線にのって市ヶ谷で降り、日テレのウラにある
東京写真専門学校(現東京ビジュアルアーツ)
に入学した。
前にも書きましたが、この学校を選んだ理由は、
「今年から、新校舎!新設備!新機材!」

はっきり言って、
「専門学校に来る奴らなんて、
どれだけやる気があるのかわかんねぇ・・!、
絶対、こいつらには負けねぇぞ!!」

なんていう気持ちでいた。

予想は
的中
やる気があったのは半分いたか、いないか。
授業は代わりのやつが、出席簿に名前を書いてOKなんて
とんでもねぇ奴らがいっぱいいた。
僕はそのへん真面目だったから、
出席率は、
おじいちゃんが亡くなって、田舎に帰った時を除いて全て出た!!
(これは自慢!)
そんな学校で、僕は残ったやる気があると思われる奴らと
頑張っていくことになる。
高校時代に培った放送業界技術(6mmテープの編集だとか、
VHSの編集(オフライン編集)とか・・・・・)が、
僕を
優等生にした。
ほとんどの奴らが初心者で、結構ヒーローだった。

そんな2年生の夏のある日、
担任の
清沢先生が、授業終わりで、
「このなかで、カメラマン志望でなおかつ、
JAZZに興味がある人いる?」
と言った。
僕は元々、T−SQUAREとか、CASIOPEAという
インスト音楽が大好きだったので、即座に手を上げた。
僕の他には、当時仲の良かった友達の一人の
鳴海くんという奴が手を上げていた。
清沢先生は、「後で職員室に来て・・・・・。」と言った。
僕ら2人は、なんだろう??と思いつつ、職員室に行った。
話と言うのは、
渡辺貞夫(JAZZ界の大御所、SAXプレイヤー)の
ディナーショーで、
カメラマン(アシスタントではなく!)のバイトがあるんだけど・・・」
みたいな事だった。
僕は
「絶対やりたいです!!」と返事をしたが、
鳴海は寮生だったので、東京でバイトをしていたので悩んでいた。
北海道の釧路出身の
鳴海は大の巨人ファンだったから、
後楽園球場(1年時)・東京ドーム(2年時)で、
球場内の売店(焼きそば担当)をやっていた。
僕らはよく、日ハム戦を見に行って、
ただでよく焼きそばを食わしてもらったものだった。
そんな鳴海も、カメラマンという仕事を目指していたので、
なんとか都合をつけてやることにした。
そんなことで、
僕は東京に来て、
初めてアルバイトをすることになった。
しかも、
カメアシじゃなくカメラマンの・・・・・・・。

つづく