tsuji-cam's HISTORY
ニユーテレスN

今回はカメラアシスタント時代の想い出の中でも、
特に勉強になった、報道の仕事について書きます。
ボクがニユーテレスに入社したのは
1988年(昭和63年の事である。
その年の秋は、日本の歴史上大切な出来事があった。
昭和天皇陛下
体調をこわして予断を許さない状況になってしまったのだ。

毎日ニュースの時間に、
天皇陛下の今日のご容体を報告する、という中継が入っていた。
ボクはフジテレビの
報道のカメラアシスタントとして
2週間、
宮内庁中継のお手伝いに行く事になった。
何せ
初めての報道である。
ボクは
あの
人ゴミの中で揉みくちゃになりながら映像を撮るという
イメージが先行していて、
オレには生理的に向いていないなぁ・・・。
なんて思っていた。
でも、仕事だ。
ニユーテレスの看板をしょって行くんだ。
これも勉強だ。
しっかりやり遂げてやる!!

と気を引き締め宮内庁に向かった。

宮内庁の中継は
「顔出し」と言う、
アナウンサーではなく、記者の方のレポートが中心だった。
その中に、ENGで撮影してきた映像を入れたりする。
ボクら担当は
宮内庁の庁舎を撮っているカメラ(時々無人だったりする)と
「顔出し」の宮内庁入り口のカメラの2台。

報道は、狙うところが各局ほぼ同じカメラポジションなので
譲り合いながら仲良くやっていた。
事件報道のような撮ったもん勝ちみたいなものは無かった。

中継は、
「おはようナイスディ」
(当時はまだ
「めざましテレビ」は無かったので朝イチはナイスディだった。)
お昼の(11:30〜)ニュース
タイムスリー(15:00〜)
スーパータイム
(18:00〜、まだ逸見さんがやっていた頃)
で必ず何分か入り、
夜中のニュース(23:00〜)は、ほとんど無かった。(情報のみ)
一日交代で、
宮内庁内に置いてある
フジテレビ専用観光バスに泊まり
空いた日は、
ビジネスホテルに泊まる
家には帰らない。
緊急事態のときはいつでも出動出来るようになっていた。

結局、ボクが行った2週間では
天皇陛下の体調は特に変化も無く、
緊急事態も経験せず、いつもの生活に戻っていた。
それから年末、「氷点」のスタジオ収録などを過ごし
昭和63年は終了した。

そして年が明けた
昭和64年1月
ボクは
9日から旭川に「氷点」の冬ロケに出発する事になっていた。
その
前々日の1月7日の早朝の事である。
ニユーテレスの
田中十内技術部長から、
朝5時頃ボクの家に電話が入った。
「天皇陛下の容体が悪化しているらしい。今すぐ報道の手伝いに行って欲しい」

当時ボクは、フジテレビ(河田町旧社屋)から
歩いて5分くらいの若松町という所に住んでいた為、
緊急事態の対策として任命されたと思われる。
ボクはとにかく急いで報道のデスクに向かった。
「ニユーテレスの辻です!連絡いただきまして来ました!」

報道の方はボクに一言言った。
「君は長寿庵みたいだねぇ・・・・・。」
そのくらい早いと言いたかったのだろう・・・・。

宮内庁に着いたのは
6:30頃だったと思う。
スタッフはもうスタンバイしていた。
着いてすぐ、
天皇陛下崩御の一報が入った。
ボクは思った。
今日は大変な一日になるなぁ・・・・・。

とにかくバタバタしていた。
日本中の大ニュースだから仕方ない。
と言っても24時間ずっとスタンバイしているわけではなかった。
所々休憩もあった。
でも
ボクは休憩時間なんていらない!とカメラの練習をしていた
フジテレビ本社では
音楽葬と言って
スタジオから音楽と日本各地の映像を映し出していた。
そんな時、インカムで
「宮内庁さん、それいただきます!」
と言う声が聞こえた。
中継車のスタッフは休憩しているし、
ボクが練習しているカメラには
タリーが点いている。

ボクは宮内庁の庁舎にZOOM INやPANなどの練習をしていた。
そのままやった。
結局ボクは、その
音楽葬に参加をしてしまったようだ。
後で怒られたりするかとビクビクしていたが、
特に怒られなかった。
でもすいません。勝手な事しました。

というのが、
ボクの昭和最後の日&平成最初の日の想い出です。


報道にはカメラマンになってからもちょくちょく手伝いに行った。
宇野内閣組閣
(総理官邸で、任命された大臣の入廷を撮ったり・・・。)
竹やぶから1億円が・・・!
トカレフ(拳銃)を持った強盗が民家に!!

(ボクら報道陣以外、警官はみんな防弾チョッキを着ていたなぁ・・)
秋篠宮紀子さま、実家に里帰り!
(待っている間、記者さんとジュースじゃんけんしたっけなぁ・・・)
などなど
若い時期にいろんな経験が出来てとてもよかったと思っています。
ただ、
勉強にはなったんだけど、やっぱり
ボクには向いていないなぁ・・・・。


つづく