tsuji-cam's HISTORY
ニユーテレス@


1987年(昭和62年)11月、
当時住んでいた文京区湯島にある僕のアパートに一通の封筒が届いた。
差出人は、
(株)ニユーテレス
僕が、
この会社に入るぞ!
と決めていた憧れの会社からだ。

1ヶ月前。
僕は学校の同級生5人と共に、この会社の試験を受けた。
担任の先生は
多分、全員落ちるだろうと思っていたに違いない。
そんなリアクションだった。

ニユーテレス
という会社は、
当時、
とんねるずに番組でいろいろとからまれ
カメラマンがレコードを出したり、TV的に有名な会社であった。
実際僕も、それでニユーテレスを知った。

ただ、マジでこの会社に入りたいと思ったきっかけは
その、TVで歌っている姿を見てではなかった。


僕が高校生だった頃
ニューテレスが主にやっていた番組は
「オレたちひょうきん族」「欽ドン」「オールナイト・フジ」などだった。
当時は、
とんねるずがグングン出てきたころ
僕は、よく
「オールナイト・フジを見ていた。
そんなある日の放送で、
ミニコンサートという、
要するにゲスト・ミュージシャンの歌を
何曲か放送する歌のコーナーをやっていた。
その日のゲストは
爆風スランプ
当時僕が、とても好きだったバンドである。

そんな理由でこの日は、ビデオを撮っていた。
そして、
そのミニコンサートのカメラワーク
超ビックリ!超感動をしてしまった。

同じ曲を
「夜のヒットスタジオ」でやっていたんだけど、
申し訳ないが比べものにならなかった。
学生の僕にでさえ、はっきりわかった。
よし、俺はこの会社に入るぞ!
と決意した。
当時(今も)僕は
歌番組がやりたかったので
絶対入ってやると心に誓った。
そして、専門学校に入った。

ある日の事。
何月か忘れてしまったが、
先輩(たぶん番組のAD)の紹介ということで、
「欽ドン!ハッケよい笑った!!」という番組の
公開収録のお客のバイトをクラス中で頼まれた。
萩本欽一
さんの番組で、ダウンタウンなんかが出ていた。
その番組の技術が
ニユーテレスで、
僕は欽ちゃんやダウンタウンなんかより
ニユーテレスばかりを見ていた。
早かった。
動きが、画を撮るのが・・・。

そこには、あの
「オールナイト・フジ」で歌を歌っていた
後に、僕の師匠のひとりとなる
藤江カメラマンもいた。

僕は、ますますニユーテレスにひかれていった。

そして、
いよいよ
就職の時期を迎える。
もちろん、ニユーテレスしか頭にはない。
ニユーテレスの募集は
9月頃にきた。
ちょっと遅めだった。
クラス中が受けると言う奴ばかりだった。
多分、とんねるずの影響だろう。

ただ、結局試験を受けたのは
5人だった。
その一人は、ニユーテレスで
カメアシのバイトをしている奴だった。
(同じクラスの奴だったが、ニユーテレスでバイトをしている事は
内緒にしていた。ズルイやつめ!
俺もしたかったなぁ・・・と思ったものである。)
でも、そいつの事は関係ない。
自分の実力で戦ってやる!
ダメだった時の事は全く考えていなかった。
計画性のない就職活動だったかもしれない。
実際、面接試験で、
「うちがダメだったらどうします?」と聞かれ、
「その時考えますので、今は考えていません。」と答えている。
筆記試験、面接試験。どちらも、自信はなく
「落ちたらどうしよう・・・」という気持ちは、心の隅にあった。
面接試験で、
引っ掛け質問に気付いたのだけが自慢だったなぁ・・・。

そして、
1987年(昭和62年)11月14日
学校から帰ると一通の封筒が僕のアパートに届いていた。
差出人は
(株)ニユーテレス
入社試験の結果通知に違いない。
結果は開けてみないとわからない。
思いきって開けてみた。
契約社員として内定
という人事採用担当からの通知だった。
合格だ!やった!!

結局、同級生の中では僕だけが合格した。

担任は、
「君なら受かると思っていたよ。」と調子のいいことを言っていた。

夢のひとつが叶った。
しかし、
これからもっともっとツライ、
カメラマンへの道
が始まるのである。
これが、僕の
カメラマン人生プロ編のスタートとなった。


つづく